最近のネットの書き込みで感じるのは、自分の主観的な価値観や好みと異なることを批判するのに、法律だったり倫理だったり、はたまた技術だったりの良し悪しで語るパターンが気になる。簡単にいうと、xxx だから正しくないとか、xxx は間違いだ的な表現が多いと感じる。
この類の話は、まったくメタファーとして適切かどうかは微妙だけど、絶対的価値観が定義できない世界ではよくある。例えば、オーディオマニアなどでは、このアンプのほうが音が良いなんて表現をするけど、それは良いの定義が曖昧で、つまるところ主観的な好き嫌いのことだ。この辺りは、スピーカーコードとかCDのマテリアルとか、微妙な違いがあること自体は共通して認識するけど、どちらかを選択する時に良くあるパターンだ。
これは、実は品質の話そのもので、品質とは「対象に本来備わっている特性の集まりが,要求事項を満たす程度。」 と、ISO9000:2015では定義されている。つまり、品質というのは、要求事項との比較で評価されもので、絶対的定義があるわけではない。
これを、物事の評価と置き換えてみると、評価とは対象に本来備わっている特性の集まりが,要求事項を満たす程度。」 とも言える。こごで要求事項は、評者固有の要求=価値観なので、結局のところ物事の評価は、人それぞれということになり、絶対的な評価基準が定義されているわけではない。
もちろん、法律や規則、仕様などにより、要求事項が明確かつ共通の認識として定義されている場合には、それに合致しているかという評価は可能で、こういうのは主観が支配するものではないから、おのずと評価も収斂する。
このように、主観というか自己の価値観との比較による評価、論評は、人それぞれなのにも関わらず、その正当性を主張するに、生半可に法律や技術や事例を持ち出したり、著名な人や専門家の発言などをご都合よく引用するのが気になる。
もっと素直に、俺は嫌いだとか俺は好きだと言えばいいのにと思うのだ。まぁ、こういう表現は、100%自分が責任を持つことになるので、自己保全のために法律的に間違ってるとか、技術的にこちらが正しいとか、xxさんがこう言っているなどを論拠として持ち出したくなる心境が働くのかもしれない。
それでも、そういう論拠を正しく引用して表現していればいいのだが、中にはニュースのリード文や他者の発信だけをコピペして、"ほらほら”とか”だから言ったじゃん”とか、の囃し立てしかしない人も多くて、これって他人を嘲笑うけど、自分は責任取らないという、いじめの傍観者的性質かなと思う。先日の、朝日新聞の川柳なんて、まさにその典型ではと思った。
自分より優っていると感じる者に対しては、妬みをもって評し、劣っているものにはマウンティングするというのは、いじめ社会の本質で、それは子供たちがしているのではなくて、大人がしているんだよな感じる。