今日は、さすがに昨日の疲れもあるので、未処理だった鬼胡桃を剥いて、くるみパンを作りながら、事務仕事。
たまたま、ここのところ、いつくかのコンーシアムとかプロジェク的な活動の立ち上げ期に絡んでいるのだが、ちょっと辛くなってきた感がある。
同じような話が、異なる複数のプロジェクトで重さなっているので、個別の問題というよりは、これらの属するコミュニティというか業界の文化的背景なのかもしれない。もっとも、それらに共通に関わってのが自分なので、僕の価値観がこれらのコミュニテイの文化と離れつつあるのだとすると、そろそろこういう業界から僕自身が離れる時期なのかもしれない。
どうも、こういう乖離は、やはり職業的な背景なのかもしれない。ここ数年、国際標準化に関わったり、一定規模以上の企業の取締役会などに参加したりしてきたために、明確な意思決定やルールを求めすぎて、日本的阿吽の呼吸に馴染めなくなってきている感じだ。
なにも、なんでもかんでもガチガチにではなく、最良判断や最良行政をすることを拒否はしない。それでも、そういう余地を残してもある程度のルールをと思い、たまに規定案などを策定し提案している。
目に見える形の提案があると、それをたたき台にして、さまざまな意見がだされ、そのたたき台がブラッシュアップされると期待するわけだ。この期待は、あながち間違いではなく、それまで何のコメントもない人が、たたき台が示されたら、意見を出してくれる。ところが、それらの意見が、残念ながら、曖昧というか感想的なもので代案に変わったりしないので、結局のところ井戸端会議が続くだけになることがある。そして、結論は、日本的に 「じゃ、そんな感じで..よろしく」とかになり、白黒はっきりしない。
いわゆる、阿吽の呼吸で進むなら、これでまったく問題はないのだが、そうじゃない場合には、やはりどこかで意思決定をしないとならないのだが、残念ながらそのルールが不明だったり、リーダーシップの職権に則って示されないことが多い。多くの場合、トップに権利があることは、暗黙の了解になっているのだが、それはいつ、どのような形で行使されるのかが不明で、なんとなく偉い人が言ったから的運用になっているわけだ。
グローバル化とか多様な価値観といのうが重要だと言われるけど、そういうものを受け入れて、共生していくには、やはり明確なルール、権限と義務の明確化が必要だと思う。ところが、これを主張するのは、日本的阿吽の呼吸という空気を乱すことになり、日本では馴染まないのかもしれない。
ちょうど、この前の情報通信審議会の部会でも、こんな話しになったなぁと思い出した。やはり、そろそろ、諸々のコミュニティから退散する時期なのかもしれない。