今日の夜は、某大学の先生と楽しいディスカッション。情報というものの概論みたいな話しから、言語のコンテキスト論など、次から次へと話しが弾んだ。ちょっと、AIとかディープラーラニングな話題になって、話し混んでいたら、僕のなかにふと素朴な疑問が浮かんできた。
それは、なにかというと、ワトソンにしてもGooleのAIにしても、外部からの刺激(入力)が無くなったらどうなるんだろうということだ。僕ら人間は、ある種自分で自分の内面に閉じこもるというか、向き合うよなうことが出来る。
ちょうど、村上春樹の物語に出てくる井戸の底に降りていくようなことが、実際に僕らには出来る。では、AIなどは、まったく外部から刺激が亡くなった時に、自らの内面に向き合っていくことは出来るのだろうか?
たまたま、遠藤周作の「沈黙」を読了したタイミングなのだが、僕は宗教も宗派を問わず、自己との対話というか自分の心の写像みたいなのが、共通してあるように感じている。
というわけで、AIのようなものが、外部からの刺激ではなく、自己と向き合って、外なにかに目覚めるなんてことが出るようになるとしたら、それこそが本物じゃいなかと、ふと思ってしまったのだ。