国のデータ戦略やらデータ連携基盤やら、とにもかくにもデータな議題の会議だらけな日々が続いてる。
このデータという無体物は、本当に厄介だ。昨年度起草したパーソナルデータのアーキテクチャでは、「データとは、情報の表現を構成する要素であり、伝達、解釈または処理に適するように形式化され、複数のデータの組み合わせにより、情報を構成しうるものである。」という定義を採用した。
この定義では、データとは"情報の表現を構成する要素"ということになる。すなわち、これは表現と言う行為なりがある前提だ。
その上で、このデータに対する権利のようなことを考えだすと、とてもとても明確な定義には行きつかない。これが、なんであれ伝達されるための形式をとれば、それは通信内容であったり、記載された書物であったり、メモリー上に記憶されたものであったりと、少しは有体物的な性質を持ちうる。
逆に、データという用語そのものに注目する、とてもとても綺麗に整理できない。例えば、データ化するという行為は、「人や業を営むものの行為や活動を観測、計測し、これを伝達、解釈または処理に適するように形式化する行為である」と書けるかもしれない。
では、この時に被観測または被計測されるのが、自然だったらどうすんだよ...となって、結論が出ない。
ということで、昔あった地下鉄はどこから地下に入れたの問題で、悶々としてる一日だった。