今朝、ホテルで貰った朝刊を電車の中で読み始めて、あれ随分と朝日新聞も論調が変ったなと違和感を感じて、見直したら読売新聞だった。
最近の特定秘密保護法の報道とか、アジア諸国との外交問題とかで、日刊紙の論調の違いが結構目に付くけど、それはいまの情報化社会で、様々な情報にアクセスしやすくなったからだと言う事に,改めて気づいた。
昔は、新聞や雑紙を何誌もとって、それを読み比べることをするには、それなりに経済的な余裕も必要だったろうし、朝のテレビ番組みたいに、各紙の報道を並べて解説なんていうのも無かったろう。
そうなると、おそらくは絶対多数な人達はどうしたって、物事を限られた視点や限られた情報源から見ることになって、そこに潜むバイアスに気づく人は、とても少なかったのかもしれない。
そういう意味で、以前の色々な社会問題(戦前や戦時中の報道も含めて)における、メディアの責任はかなり大きいかったろう。
ところが、今僕らはもの凄く沢山の情報発信者の発信する文章や画像やら,動画やらを、とても簡単に比較し、読み解くことができる。
このことは、なにも情報の受け手側の特権ではない。つまり、情報を発信する側だって、自分以外の考えや価値観と比較しながら、自ら考えを整理する事ができる。
こんな時代に、日刊紙の記事が、これほどまでに偏った紙面になるのは、書き手が未だに昔の体質で、自分たちだけが、世論を正しい方向に導くというような驕った特権意識だから抜け出ていないということなのかもしれない。
♪I’ve looked at every things from both sides now♪