年度末なので、いろいろな業務のまとめに入ってるのだが、つくづくデジタル敗戦とか言われることの原因というか遠因を感じて、滅入っている。
実に、ものすごい量のホワイトペーパーやらガイドブックやらは、既にたくさんのデリバラブルが関係省庁からリリースされている。最近は、これらに加えて”アーキテクチャ”なる名前のデリバラブルもあって、僕もいくつかは関わってきた。我が国のこの類では、沢山いるCIO補佐官様が旗振りをしていることがおおく、民間から登用された方も多い。
そういう関係者に知り合いも多いし、嫌われたくないけど、あまりにひどい事案が多いので、ちょっと愚痴ってみることにした。
基本的に沢山リリースされている文章って、それを書いて発表することが目的になっていて、それを参考にして各種サービスが推進されることを、必死にというか責任持って遂行しようする意志を全く感じない。極端な話、その時々に、予算を使って、なにかやりましただけに思えてしまう。
持続的なメンテナンスを考えていない予算措置、自分の担当の任期中に予算消化して、その成果物ができてれば良いと思う担当レベルの官僚(多くの場合は、出向者)には、本当に呆れる。
さらには、その業務の成果に熱意を持たず、発注側に忖度して、どうあるべきかではなく、こういわれたからという行動原理の受託事業者により、中身が骨抜きにされ、維持管理もされない、成果物が多すぎる。
先のCocoa問題の時もそうだけど、事務官村では、ちょっと民間から来た技術系の人は、技術を知ってる人と言われる。そういう人も増えて、発注側の行政には、それなりに目利きができると宣う人がいるけど、とてもそうは思えない。
もし、一度でもスマホアプリの開発の現場にいたなら、A社やG社のアップデートの頻度も、その都度行う作業の煩雑さも、それにより起こる問題も、知っているはずだ。だから、関係者が何人いるかしらないけど、かりに数百人いたら、そういうことを警鐘する人がいたはずだけど、もしいなかったとしたら、素人の集まりだという誹りを免れないだろう。
デリバラブルが誰かに読まれて使われることを前提としていないと思う事例が今日もあった。共通的なリファレンスとして使われることを目的としている文章というのは、ある種の標準仕様なので、可能な限り読者の裁量理解によりその効能が損なわれないようにすることが重要だ。これは、別に全ての項目を、厳密に定義するということではなく、必須な部分、選択的な部分、制約を求めない部分があることを否定しない。
そこで、僕らはなんらかの文章を書く時には、その文章の中で使う用語の定義をしっかりと記載するように心がけている。これは、その文章がある意味規範文章であれば、なおさら重要となる。つまり、文責を担うものは、しっかとりその文章によって起こりうる事象に対するアカウンタビリティを意識していないとならない。
ところが、こういう責任に対する回避意識なのかわからんけど、あまり定義を強く打ち出さないで欲しいという意見を言う人がいて、きょうはびっくりした。別に、世間一般での定義ではなくて、当該文章における用語定義なのに、それさえも縮退させるコメントだ。
こんな無責任な輩が、展開も考えない一過性の予算政策で起草される文章が、リファレンスとして、広く参照され利活用されるとは、到底思えない。
行政レビューとかでも、こう言う行政が開示する文章についても、持続的評価をして、持続性のあるディジタル化提案に変えていくことが重要ではないだろうか?