参加している情報処理学会の研究会で感ずる事は、昨日の投稿に書いた。今日は、自分の講演と展示もあったり、夜にはDICOMOの名物セッションのナイトテクニカルセッションがあったりで、多くの学生の活発な様子が伺えて、良いエネルギーを貰った。
夜の懇親会で、某研究会の主査の先生と話しをしていたら、彼も同様の問題意識を持っているようで、その話しでしばし盛り上がった。それは、なにかというと、研究の詳細ではなくて、テーマの設定の適正さだ。
この研究会は、学部生や修士の学生さんがメインで、多くの場合そのテーマや研究前提条件などはは、教官の指導によるところが大きいと想定される。となると、痛いテーマ説定や強引でご都合主義的な前提条件は、学生さんというよりは指導教官の技量に起因しているわけだ。
学生さんの発表を聞いていると、実証試験や考察という学生さんが汗を流した部分よりも、そもそも論的に研究テーマや前提条件に疑義があるものが多い。
だから、質疑で学生さんに突っ込んでも、学生さんが答えられるわけではなく、むしろ同じ部屋にいるであろう指導教官に問いたい事かだ多々あるわけだ。特に、テーマに特定の技術やインプリに関する用語が入っているような発表は、だいたいこういう問題を含んでいる。
プロブレムステートメントを、普遍的モデルに置き換えて、問題の本質や根本的要因を明確にし、それに対して論理的に有効な手法を提案し、コンセプチュアルな結果を推論するという部分が欠落している発表は、本当に聞いていて学生さんに同情せざるを得ない。
はっきり言って、研究の発表ではなく、発表のための実験をして、その報告をしている感が否めないのだ。もし、きちんとしたテーマ、前提と推論があるのであれば、学部生やM1の学生さんで、研究期間が十分でないとしても、その途中報告をすること十分に意義がある。
しっかりと、ゴールまでのストーリを示した上で、そのうちこの部分について実証と評価をしたというのであれば。それは十分に次への期待を込めて、議論をするモチベーションを参加者にも与えてくれる。ところが、発表のための実験的なものは、そもそも論的コメントが出た瞬間に、話が終わってしまうわけだ。
僕が定常的に参加している別な研究会では、こういう質問には、しっかりと指導教官が発言したりするんだけどなぁ....