ちょっと前にあった大分の村八分に関する裁判のニュースからの派生なのか、今日北杜市に田舎暮らしをしている人が、移住先で不当に阻害されている的な記事があった。
同じ北杜市に都心より移住している者として、件の記事はかなり取材にバイアスがあるようだし、いま流行りの「エビデンスなんてねぇよ」的な部分も感じるので、その内容について云々は書かないけど、たまたま元旦に集落の拝賀式で宮司さんから聞いた話しを思い出したので書いてみる。
僕の住んでいる集落は、登録が65世帯、実際の定住が40世帯くらいで、上小倉と呼ばれる集落だ。(正式な住所は、須玉町小倉で、その一部)この集落は、全体が区と呼ばれる自治単位を形成していて、この下にエリア単位で三つの組に分かれている。この自治組織には、班長や会計などの役員のほか、民生員や、土木などいくつかの役職があり、住民から互選で選ばれる。こういうのは、最近の都会に住んでいる人には、理解しにくいものだけど、実は東京でも昔からの地域には結構同様なものがある。
都心の場合には、道路の整備や街路灯などのインフラの整備、ゴミ収集管理なんかは、基本的に行政が行うので、まぁ自治組織自体の役割というか存在意義が稀薄になっているのだろう。実際に、僕も武蔵野市と二拠点生活をしているけど、武蔵野市ではまったく地域自治を意識したことがない。
ところが、人口密度が低い田舎では、限界集落ではなくても、生活インフラの維持管理や行政からの広報などを含めて、行政が直接サービスを提供するのに十分なリソースもなくも、地域の自治組織に委託する事が多々ある。
また、水路(必ずしも農業用途ではなく防火水の要もある)や道路のように、複数の地域にまたがる共有財もあるし、財産区なんていう自治単位もある。
こういう環境では、結果的に集落の共有財も共同作業も多々ある。自治体が各住宅単位でゴミの収集もしてくれないので、集積場などは共有インフラとして維持管理しているわけだ。たまたま、自治体の所有する土地でもあれば良いが、場合によっては私有財産を拠出してもらうケースもある。そして、これは都会のマンションなどでも同じかもしれないけど、ゴミの集積場だって、誰かしらが掃除したり整理していないと、あっという間に汚くなったり、カラスなどに荒らされたりする。つまりは、なんだかんだ言っても、住民が担う作業というのが存在しているのだ。
これに対して、xx郷のような管理会社がついてる別荘地などでは、管理会社が多くのことをしてくれるので、管理費を払えば済む事が多い。
さて、僕の住む集落では、役員の互選はもちろんのこと、いろいろな事柄について、一方的に強要されることはなく、それなりに総会や話し合いが行われて、かなり民主的に決まってく。僕のような余所者の意見も、しっかりと聞いてくれる。
そんな集落でも、自治のための最低限の区費( 年額5,000)の支払いや、年に二・三回の共有作業への出労などは義務として存在する。もちろん、これを拒否することは、各世帯の自由だけど、義務というのは必ず権利とセットだ。だから、義務の履行によって得られる権利が何かを確認して、義務の受容=権利獲得を自ら判断すれば良いわけだ。
いささか、前置きが長くなったけど、冒頭の宮司の話に戻る。元旦には、公民館に区の住民が集まって、公民館横にある八幡宮で歳旦祭が行われる。もちろん、これだって参加は自由だ。なお、八幡宮と言っても、2畳くらいの広さの小さな祠があって、隣の集落にある大きな神社から分詞されているので、そちらの宮司さんが来て、祭祀を執り行う。
いつも、こういう祭祀あとに、一言宮司さんがお話しをするのだが、今日は義務と権利の話しだった。曰く、まず義務をしっかりと果たして、それから権利を主張すれば良いのに、昨今はまず権利を主張するという傾向が強いのではないかという話だった。
地域生活とかにかかわらず、仕事場や仕事関係のコミュニティでも、確かに権利主張はご立派なのに、汗かかないよねって人は、なかなか付き合いづらいものだ。
まぁ、コミュニティに属するのであれば、権利や義務とかいう前に、コミュニケーションなんだけど、どうも日本は村社会ガァ...的なことに突っかかる人も多い。こういう人は、みてると論は立つけど、結構いじけキャラで、まあコミュニケーションが苦手系なのかと思うこともある。
本当の意味で、プロフェッショナルスキルがある人は、もしコミュニティに属するなら、その中でもリーダーシップを発揮するんだろう。でも、コミュニティに参加しないか、参加しても存在を認知されない技量の人は、そのコミュニティを批判したり権利だけ主張するのかもしれない。
というわけで、僕的はDuty 1st, Rights 2ndを心がけよう。