Twitterなどで、電子教科書に関する議論が白熱している。 電子辞書は、一覧性に欠けるとか、辞書を引く行為によって記憶が形成されるとかいう、じつに下らない反対論が根強い。
まぁ、ご多分にもれず、こういう反対論の人は、はじめに反対ありきで、本当に冷静に比較考証して発言していないことは明白だ。 だいたい、電子教科書だろうが教科書だろうが、道具であり教育本体ではなく、時代や環境に応じて、目的である教育に合致したものを選択する事が重要であり、どちらかが一方的に優位なわけでも、どちらかに統一するべきものでもないだろう。 それなのに、電子教科書の配布ありきな論を張る方も、いささか無理が有るし、電子という言葉だけで反論するほうも、いかがなものかだ。
たまたま、今日は、推進側のつぶやきで、電子教科書の導入で、雑務から教師を解放できるなんていうのがあったが、これなんかあきらかに感情的発言で説得力がない。 教師の雑務がどういうふうに、構成されていて、そこに電子教科書を導入した場合、どれだけの時間的利益が得られるのかなんていう、あたりまえのコスト分析も費用対効果解析も無い。
昨今の一連の論争を見ていると、なんでこうも皆さんステレオタイプなんだろうと呆れてしまう。 そして、ステレオちっくに原理主義的発言をしているくせに、ちょっと突っ込まれると100%ではないとか、場合によるなんていう反論をするから、まったく議論は収束しない。
先般も、とある放送系の方がメールニュースで、Ustなどは誰でも使えて手軽だけど、品質では従来の放送系技術が優れているので,自分たちは一線を画して高画質路線を進めるなんて書いてあったけど、この人達がUstとかをちゃんと使った事が無いのに、こういう結論になるのも原理的だった。 実際に、いけてる放送局は、ちゃんとネット用の低画質も、放送やDVD用の高画質も、適材適所で使い分けているのだ。
使った事も無い人間が、なにかについてステレオタイプな論評をする時は、まずはじめに主張ありきであり、合理性も理論も無い事が多い。