「天切り松闇語り」シリーズとか「メトロに乗って」とかで、浅田次郎さんの描く、オリンピックくらいまでの東京の描写が、僕にはとても懐かしいし、とても好きだ。 といっても、僕は1960年生まれなので、彼とは9歳も違うから、実際にはかなり見ていた風景は違うはずだ。 それでも、なんとなく出てくる風景や、旧町名や、銀座、浅草、上野、神田界隈の風景と、市井の風俗描写や江戸っ子気質的な話がとても馴染む。
今回、彼のエッセイの「ま、いっか。」を読んで、なんとなくその共感の底にあるものが、垣間見えた気がする。 僕は、大塚の花柳界で生まれ育った。 花柳界で生まれ育ったと言うと、それだけで万が一まちがって政治家とかになったら、きっと面白おかしくその出自を週刊誌に書かれるかもしれない。 もちろん、全然隠す事も反社会的なこともまったくないので、気にした事はないけど、いわゆる気質の会社員の家庭ではない。
そんな世界だっから、僕も子供の頃は毎月のように歌舞伎座や新橋演芸場とかに芝居見物に行った。 実際、いまや女形のスーパースターの方は、うちの町内に実家があって,十歳年上の姉とは同級生だったから、よく子供の頃は家に遊びに来ていたし、歳の離れた僕はもうすっかり役者になった彼の楽屋を訪問したことなんかもある。
そして、町内には朝ドジョウ売りが来たり、大相撲の場所前には触れ太鼓が来て、番付表を配ったり、羅宇屋(煙管の修理屋)も定期的に来ていた。
この他、包丁研ぎやら雛人形、5月人形の飾り付けの職人が来たり、新内流しがいたり、とにかく街のなかにいろいろな風物詩があった。 大塚の花柳界には、見番と一緒に大きな演舞場もあって、組踊や獅子舞なんかも季節ごとにあった。 昭和四十五年くらいまでは、芸妓も二百人以上はいたと思う。
それでも、新橋、赤坂、神楽坂、向島なんていう高級とは違って、ちょっと外れると住宅街があるし、すぐ近くは大学や高校の沢山ある文教地区で、そのあたりの中途半端さが不思議な街だった。 まぁ、その頃は、駒込や池袋、新宿、渋谷にも、三業地はあったけど、大塚は比較的持続したほうだろう。(いまでも、続いてる)
そして、なによりも下町かというと、浅草とか深川とか、神田みたいにな、100% 下町じゃない。 かといって、田園調布とかの山の手とも違うという、いわば汽水域なわけだ。
だから、浅田次郎さんが、銀座に行くのは儀式的な要素があって、「よそゆき」を着ていくけど、新宿だと普段着で行けるという表現なんか、本当に良くわかる。
といわけで、あらためて自分の生まれ育った環境を見てみると、古いものと新しいものの混沌とした時代と環境にいたわけで、いまもって、無線と有線、ビジネスと研究のどっち付かずな境界域で仕事をしているのは、もしかしたらこの辺りの土壌のせいではないだろうか..... と自分を正当化してみた。