昨夜のW杯の日本の試合運びについて、実に様々な意見ががネットで飛び交っている。僕は、熱烈なサッカーファンではないけど、まぁ普通に興味はあるし、日本代表を応援する気持ちはあって、昨夜も珍しくちゃんと深夜なのにTV観戦をしていた。
確かに、サッカーの試合としては、あの最後の時間帯は、つまんないからブーイングしたいという気持ちは判る。でも、あれはあれで残り時間みながら、途中でセネガルが同点に追いついたらどうしようとか、パス回しをミスったらどうなるのとか、それなりにハラハラドキドキして、時計が進むのを遅く感じていた。つまり、ある意味のドキドキな楽しみはあったよ。
サッカーに限らずルールのある世界では、どうしても腹落ちしない状況は存在するのが常だ。まったく違う世界だけど、僕が参加しいてる標準化では、だらだらと長い時間をかけて成果の期待が薄いと思われるテーマを議論しているグループがあった。もちろん、そのグループの人達には、その存在の意味があって、恣意的に活動していたわけだ。でも、多くの人で構成されるコミュニティでは、一定の合意は必要なる。そこで、そのグループの作業範囲を広めるという提案があった時には、僕は決議に必要な発議賛同を自ら行った。その意図は、とにもかくにも決議をさせることで、明確な結論を出すためだった。結果、この提案は目論見通り否決されたのだが、つまりは否決させるために決議を進めたわけだ。国会での運営とかでも、腹落ちしないけど、ルール的にはそうだよねというのが、同様に沢山みられる。
まぁ、こういうルールのある世界では、大事なことはルールが良い機能を果たしていないと思った場合、ルールを修正することだ。どんなコミュニティも持続的な活動をするには、決まってることだからと頑迷になるのではなくて、ルールに従った運営をしながらも、つねにそのルールの適正さを考え、時にはルールの修正をすることだ。もちろん、あまり頻繁かつ浅慮な修正は困るので、一定のハードルはいる。
スポーツの世界では、結構頻繁にルールブックの改定が行われるので、今回の結果を受けてFIFAがなんらかのアクションをするとしたら、それはそれで興味がある。
今の時点で、ネットでは昨日の事の良し悪し的な意見ばかりが目立つけど、ではどうしようかという建設的な話しに繋がるのか、一過性なのかは、俄か評論家と真摯に取り組む人の差としてこれから見えてくるのかなと思った。