久しぶりにアゴラに、電波開放への工学的アプローチという記事を投稿した。
記事は、リンクにあるのけれど、これを投稿した背景には、本題の電波開放というテーマに対する思いもあるけれど、冒頭の以下の部分が本音だったりする。
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西澤潤一先生が、工学の「工」の字は、天の理と地の人を結ぶ事を表していると話していたのを聞いたことがある。 我々工学に関わるものは、自然現象や原理と、人の営みを結ぶ役目を担っているというような話で、僕はこの話がとても好きだ。
しかしながら、昨今はどうも天の理を相手にするのではなく、人と人の利害の間に立って、器用に立ち回る学者が良き賢者とされているのではないかと思う事が多い。
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ここは、僕の個人ページなので、もう少し砕けて心の中を吐露すると、早い話が御用先生と言われるような方達の振舞いが、僕のイメージする工学者のそれと乖離していることへの、ちょっとしたストレスから書いたのだ。
僕とはて、僕が憧れ、尊敬する工学者の先生達には、真実の探求といところで、いろいろと社会の課題に挑んで欲しいと、一方的に思っているのだ。
しかし、どうも色々な研究会とか委員会を見ていると、事務局の用意した流れに、当たり障りのないコメントをして、泊付けをするたげに鎮座してる様に感じることが多々有るのだ。 なにも尖った発言とかを期待してるわけじゃないけど、本当にあなたは技術屋として、工学者として、そう思ってんのかい? と突っ込みたくなることがあって、こんなエントリーを書いてしまった。
この傾向は、なにも高齢の御大と呼ばれる先生ということではなくて、若手でいろいろと規制緩和とか叫んでる人でも、あららら自分のご都合というか立場で、本質的に問題があっても許容しちゃうのね...と驚かされる人もいたりする。 しかも、最近はこういう研究会の委員とか座長に、旧知の研究者の方々が世襲的に就任することが増えていて、元々もっていた着想の新しさとかを失っていくように見えるのが悲しいのだ。