大事な人を失って、何がというのははっきりしいなが、ついつい虚しさを感じてため息をついてしまう。これを逃げるためというわけではないが、今日から仕事にもどった。今日は、早速にCEATECでのプレゼンや打ち合わせと賑やかな中で仕事をした。
昨日の報告に対して、FaceBookでは、たくさんの方に暖かいメッセージををいただいた。そんななか、ある方から、花柳界という言葉を初めて知ったという話があった。
確かに、いまの若い人には、花柳界、花街、三業地なんていうのは、まったく耳慣れないというか、知らない言葉なのだろう。
実は、先週、大塚で病院と実家を行き来していた時に、今も名残のある花街の風景を感じて、このBlogに書こうと思い、ネットですこし関連記事を探ったりしてた。
そんななかで、まず見つけたのは、歌舞伎の坂東玉三郎さんのエッセイ 「私の生まれた所、もうさんの思い出」だ。実は、玉三郎さんの家は私の家の数軒並びで、私の姉と同い歳の幼馴染だった。そんなわけで、私の家にも遊びに来ていたし、歌舞伎界に入られた後も、歌舞伎を観劇したあとに楽屋にお伺いしたこともある。
ここに書かれている風景は、まさに僕が子供の頃の風景で、煙管( キセル)の修理をする羅宇屋や、あさり・しじみの棒手振りもいたし、相撲の本場所前には、触れ太鼓が来て番付表が配られたりしてた。この時代は、まだ三業界は、旦那衆が仕切っていたのだが、だんだとん女将の世界へと変わっていったようだ。
また。土木学会 景観・デザイン研究講演集に近代東京における花街の成立なんていう、論文も見つけた。ここには、大塚三業地の事も書かれている。
僕が、子供の頃の昭和40年代は、高度成長期で、本当に花柳界も艶やかな世界だった。後のバブルなんていうのは、この頃に比べたら、とても可愛いものだ。玉三郎さんのエセッイにでてくる居続けのお大尽は、実家の料亭にもいた。正月の獅子舞や、年に2度の組踊りの時などは、ご祝儀が景気良く振舞われていて、子供の僕も随分と恩恵を受けたものだ。
その後、すこしずつ、時代が変わりはじめたけど、景気がいまひとつだった時に、母が自ら見番に電話をして、景気付けだとといって総上(待機している芸妓衆を全て呼ぶこと)をして、実家の料亭の広間で大宴会を繰り広げたのは、いまでもとても強く覚えている。
ああいう、気っ風の良さと粋な姿は、いまでも憧れの的だ。