今朝は、中央線が人身事故で大混乱。駅は入場規制までしている状況とのことで、急遽午前中のミーティングは、WEB-EXに変更した。
夕方の会議のあと、うまく間に合ったので18:30のかいじ号で山梨に戻る。しかし、家についておぞましいのは、雑草の成長の早さだ。刈り払い機が壊れて修理にだしてるのだが、まだ連絡がないので、明日の朝もう一台購入して来て、草刈りをするしかなさそう。
今年も、草刈りの時間があまりとれないのと、獣害が酷いので、畑は今三畝だけで野菜を作ってる。
そういえば、この前知り合いがFaceBookで「野菜作りや畑をしている事は、どうしてか趣味の園芸的に捉えられる」と疑問を呈していた。そこで、僕なりに、この事を整理してみた。
僕の周りには、自分で畑を耕して野菜等を作ってる人がだいぶいるけど、この人達はそれを生業にして営農している訳でないから、やはりプロの農業家とは言えないだろう。なぜならば、自家菜園で作った野菜を、他者に販売して、それを生活の糧にしているわけではないからだ。
では、趣味なのかというと、読書やスポーツ、映画鑑賞みたいな、生粋の趣味というのとも違うような気がする。もし、趣味というのを余暇の過ごし方の一つと考えると、それは生活のためのものではない。
では、自家菜園はというと、余暇の過ごし方というよりは、生活の中の創意工夫の範囲にあるような気がする。たとえば、自家製のぬか漬けをつけたり、ジャムを作ったりするのと一緒で、食生活をちょっと良くするための、取り組みとして、まぁ自分の家の消費分くらいは、野菜もお手製でという感覚ではないだろうか?
つまり、その目的が生活の糧を得る為のものではなく、より快適な生活をするための取り組みのようなものだ。
ということで、僕も含めて僕の周りにいるこの範疇の人達の取り組みを称して、「生活農」というのはどうだろう。
そして、「生活農」で大事な事は、悪戯に収量を追求するような事はしないことじゃないだろうか? つまり、ご近所やお友達におそ分けしても、消費できないような収穫を追求するような事は、結局は自然を必要以上に酷使することになる。「生活農」では、営農の人達の手法を必要以上に追求したり模倣するのではなく、必要なものを必要なだけが良いのではと思う。
こう考えると、山梨の家の周りにも沢山ある兼業農家は、お米も作ってるけど、その実態は「生活農」だ。確かに、元々は農家であり営農だったけど、今は生活の糧は会社勤めで、親から引き継いだ畑と田圃を耕しているとはいえ、その収穫を生活の糧とはしていない。
だから、日本の農業政策が、営農している専業農家も、こういう「生活農」な兼業農家も、同じように助成している事は、バラマキの批判を受けても仕方が無いと、常々思っている。
いづれにしても、「生活農」は、快適生活につながりますよというわけだ。