朝、市役所で都議会議員選挙の不在者投票。武蔵野市は、都民ファースト、自民、民進の三人が立候補している。しかし、どうも都議会議員選挙なのか、国政選挙に向けた政争の具なのか、分かりかねる公約もあって、なんだかなと思う。
市役所からバスで吉祥寺に出たら、吉祥寺の駅前で某政党の女性候補の陣営が一生懸命応援演説をしている。しかし、その内容たるや、他の政党や候補者どころか、他の国政議員などに対する批難ばかりを、かなりヒステリックな声調で発しているだけ。残念ながら、この候補にしたら、どういう政策アイデアがあるのか、なにをしようとしているのかは、まったく語られていない。そりゃ、まぁ他が気に入らないっていうのを発言するなとはいわないけど、その先に、ではどうするのかがないと、通る人の心には響かないのではないかしら。
もちろん、人間社会では共通の仮想敵国をつくって、それをひたすら非難し、そこに同調する者同士での連帯を保つなんてのは、よくあるパターンだけど、それって子供のいじめ問題みたいに感じるのは、僕だけだろうか?
いくつかの、打ち合わせのあと、午後はビッグサイトで開催されているAI・人工知能EXPOで講演。知り合いの人工知能などの研究をされている先生と、一つのセッションの前半を受け持ったのだが、高額な参加費用なのに、それなりの大きな会場が満席でびっくり。
こういうセミナーや学術論文でも、先行研究や現在の社会の課題を示すのは、ある意味批評・批判という分類の行為だけど、その先に、ではどうするのを示すことが重要だし、そこに意味がある。
社会の中で、他の行為や仕組みを批判するのは、不満の表現であり、それはそれで生きて行く上で、個々人には必要なことだ。だけど、それを自分以外に訴えるなら、そこにはそれに対する代案があってこそだろう。
昔、ネットの世界で、「反論なきは合意」「代案なきは却下」的な、フレーズがあった。「反論なきは合意」は、沈黙ではなく反論を促すわけで、反論には非難、批判が当然あるわけだ。だから、非難、批判を多いに受けることが、「反論なきは合意」の背景にある。そして、「代案なきは却下」は、その反論には、代案がなくてはならないという話だ。
最近の週刊誌とか新聞も、なんだか建設的な提案のない批判ばかりで、うんざりすることが多いけど、SNSなどのネット民もしかりだ。まるで、プロ野球ファンが、贔屓の球団が弱い時に、やれ継投がとか、代打の采配がとかで、監督やコーチを非難してるのに近いかもしれない。でも、通のファンは、俺が監督だったら理論を持ってるから、まぁ代案がないわけでもない。実践できるかは別だけどね。