企業で英語を公用語化するというのが、一時流行ってIT系企業でも導入したとこがあった。確かに、グローバル展開したり、外国人の役員などがいる企業だと、必然的にこうなるのもわかる。だからと言って、日本人しかいない社内会議で、流暢でもない英語でってのはどうなんだという意見も確かにと思う。
だだ、僕が完全に感化されてしまっているのかもしれないけど、集団の意思決定をともうな議事運営とかだと、英語のほうが楽かもしれないと、最近感じることがある。
実際問題、たとえばある採決をする場合に、口語というより言語表記として、ハイコンテキストな日本語よりも英語の方が曖昧性が排除できるところが大きい気がする。
今日の午前中は、データ流通推進協議会の発起人会だったのだけど、母国語の文言だと、きちんと読解をしなくてチラ見で意味を推察してしまい、それで意見を言うことが出来てしまう。今日も会議の後に、「これって全員が守るんですか?」「いやいや、主語は、xxxってなんてますよね」「うーん、それは、もう少し説明しないとわかりづらいですよね」なんて会話があった。ひと昔前のネットだったら...良く嫁って突っ込まれるパターンだ。
つまり、母国語の会議だと、センテンスの厳密さに対して、あまり神経を使わないわけだ。よく、「確かに書かれてるけど、その説明文章が判りづらい....」とか騒ぐ人って、実は文章をちゃんと読んでないパターンが大半で、文章の表記や内容の不整合のことを指摘していない感情的な評価だったりすることがあるけど、あれと一緒だなとつくづく思う。
そういう意味では、逆に母国語でない英語で議事運営とかすると、個々の発言や文章に神経を集中させる時間が増えて良いのではとふと思った。阿吽の呼吸ってのはあるけど、そこに至る以前の関係性の人での意思決定なら、神経を研ぎ澄まして議論してほしいわけだ。