ツイッターのアクティブな人で、「xxは、yyであるべき」ってべき論なつぶやきを良く見かける。 ツイッターに限らずBlogとかも含めて、こういう表現の人はよくいる。 しかし、それはあまりにも、狭窄的視点だったり、根拠が限定的だったりすると、あーあーなんかステレオタイプだよなと感じる。 同じ表現でも「私は、xxは、yyであるべきだと思っている」という表現になると、この人はそうなのねで、スルーできるんだけど、主体が不明で、普遍的定義のように表現されると、ぼくはへそ曲がりなので、なんかカチンと来ちゃう。(笑)
ネットに氾濫しているお店とかの評価でも、主観的な評価を、あたかも普遍的な一般評価的に表現する人がいるけど、そういうのも、僕は信用しない。
僕は、仕事とかで、どちらかというと、べき論をする方なんだけど、あくまでそれは自分の意見として、I think...., My understanding is...とかが最初につくわけで、これは自分の発言や表現に責任を持つことでもあると思っている。
経験的には、「xxは、yyであるべき」とかって表現する人て、「それは貴殿の主観的評価だよね?」とか突っ込んでも、聞く耳を持たない原理主義的な人が多いと感じていて、自分にその考えを押し付けられない限り、スルーする事にしているんだけど、それって歳をとったからなのかしらん?