朝、一旦事務所で同僚と打ち合わせをしたあと、甲府に移動して講義。週末にワイン蔵出しフェスをやっていた駅前広場には、まだワイン樽とかが撤収待ちなのか放置されていた。甲府の駅前広場って、結構な頻度でワインやら甲州ビーフやらのフードフェスティバル的なことが開催されている。残念なことに、僕がここを通る時は、車の運転がある時なので、いつも指をくわえて横を通り過ぎるだけ....
授業のあとは、夕方から国分寺の某研究機関で打ち合わせ。テーマは、ちょっとみずからも取り組もうかなと思っていた分野だったので、ちょうど良いタイミングだった。
打ち合わせのあとは、国分寺駅の近くで一献。国分時は学生さんも多いので、リーズナブルな店が多くて良い。
今日の打ち合わせで、研究者とか技術屋系な人のソーシャライズ的な話になった。スペシャリストは、やはりスペシャリストなりに難しい人が多いけど、なんらかの実績がある人がステップとしてソーシャライズする力を身につけて、上位層の仕事をすると頼もしいなというのは、共通した認識だ。
一方で、スペシャリストでも、本当に天才的な人というのは、ちょっと独特だ。ぼくの周りには、この人は本当に天才なんだなと思う、頭の切れる研究者が数人いる。こういう人達は、若い頃はソーシャライズというかコミュティでの生き方が尖っていた。でも、年齢を重ねて、それなりに丸くなったように思うのだが、それは丸くなったというよりも、個性やらポジションが確立された結果と他者に対する達観から、他に同意をとったり賛同を求める必要がなく孤高な研究者としてやっていけるようになったからではないかという話になった。
孤高な研究者というのは、単に孤立しているのではなくて辞書によると「ただ一人はなれて、高みにいる」というこなので、これはある意味スペシャリストとして、うらやましい領域だ。
一方、民間の技術を生業とした仕事をしている立場だと、孤高というのはなかなかに難しい。それは、一人で自社製品をコツコツ開発するのでなければ、周りにはパートナーがいたり、客がいたりするからだ。たまに、そこそこに技術力がある(大抵は自称でしかない)と、そこに謙虚さを失って自分こそが正しく、相手が仕事の内容に問題を呈しても、それは相手が悪い的に対応をする技術者もいる。
まぁ、仮にそれが技術的に正しい理屈だとしても、一定のコンセンサスを得ることと、コンフォタビリティを周りに与えることが民間では求められる。まぁ、そこでこういう孤高気取りだと、結局「あの人、面倒くさい」ってなって仕事を一緒にしなくなる。たまに、技術屋でもその技術的成果を適切に使えない相手をバカにしたり貶したりする人もいるけど、こういうのは典型的な孤高気取りでしかなく、結局のところ他の技術屋に仕事はとって変わられる。
だから、理屈ではなくて技術の成果を顧客や周りに使ってもらってこそという価値観を持てない人で、もし本当に高みにある技術力がある人などは、自分の研究にひたすら向き合う研究職に就くことが良いのだろうとつくづく思う。
R&Dとよく一括りにするけども、「R」では先進性や新規性の高さが重要であり、「D」では実現性や有用性が重要となる。実際にハードにしてもソフトにしても、既存の部品やプラットフォームの上で、アプリケーションとしての何かを開発する世界では、孤高な技術者を気取ったところで、ただの
「面倒くさい」輩にしかならない。
もし、僕にも孤高の'研究者になれるほどの天賦の才があったら、研究職を目指したかもしれないなぁ。